ロベ雌雄原株とロベ感謝の碑

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八丈島で「ロベ」と呼ばれ、親しまれているフェニックスロベロニー(シンノウヤシ)は、大正8年(1919年)に横浜植木株式会社が八丈島に持ち込んだもの。
この「ロベ感謝の碑」の左右にある雌雄の2株が八丈島のロベの祖先なのだ。
現在の八丈島の重要な農業生産品であり、ロベの切り葉と鉢物は全国の90%が八丈産となっている。
海外にも輸出しているそうだ。
有限会社山田屋さんの情報によると、遙かパリのドゴール空港の観葉植物として「ロベ」が置いてあったとの事。
もしかしたら、この2株の子孫で八丈島産である可能性があるかもしれない。
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鳥島罹災者招魂碑

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明治35年(1902年)8月9日、八丈島の南約300kmの場所にある鳥島が大噴火し、住民125名が全滅する大惨事となった。
その多くは八丈島出身である事から、護神山麓に招魂碑が建てられた。
島酒の碑の右手にある小道を少し登ると、護神山の木々に囲まれて、巨大な石碑が姿を現す。
真下に交通量の多い都道があるとは思えない静かな場所だ。
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浮田半平功労碑

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かつて西の港であった前崎港は玉石の浜の港であったため大変不便であったが、宇喜多秀家の次男秀継から11代にあたるの浮田半平が村を勧誘して、新たに八重根に港を開いた。
その功労を称え、近藤富蔵が自ら石を探し文を彫り、半平の妻である加登(かと)が明治元年(1868年)に建立した。
もとは馬路の墓地にあったものを東里、稲葉の墓地に移して立てたもの。
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釈迦堂

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釈迦堂に続く道は行き止まりの上、狭いので民俗資料館に車を止めてから向かうことおすすめする。
民俗資料館を出て、左に見える河口(こうくち)の信号方面に進むのだが、前もって反対側にわたっておこう。そして「この先落石(危険)箇所に付き通行できませんので、反対側にわたってください」の立て札の手前にある小道を登って行こう。
所によっては苔がびっしりと行く手を遮るように地面を覆っているが、気にせずに5分ほど進むと玉石垣で作られた入り口が楊梅ヶ原 釈迦堂だ。

キリシタン灯籠

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優婆夷宝明神社(うばいほうめいじんじゃ)の本殿の裏の柵の中にあるので、見落としてしまいそうなキリシタン灯籠。
柱の部分を十字架に見立て、最下部の地蔵様の変わりにマリア様がある。
花崗岩のこの石灯籠はキリスト教や茶道とは無関係で、流人で石工の仙次郎(1983年流罪、1856年没)に自由に腕を揮わせた作品。
1854年に奉納された。
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宇喜多秀家と豪姫の石像

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平成9年に岡山城の開城500年を記念して岡山市が行事を行い、その一環として八丈町が設置した石像。
流刑後離ればなれになってしまった宇喜多秀家と豪姫だか、現在は並んで南原千畳敷から八丈小島を眺めている。その先には岡山城があるそうだ。
また、ここは夕陽の素晴らしい場所であり、八丈島で最も夕陽を見ている二人なのかも知れない。
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八丈島甘藷(かんしょ)由来碑

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八丈島甘藷由来碑は大里地区の馬路(うまじ)の一角にあるのだが、馬路は道が狭く、車を止める場所がないので、民俗歴史資料館に車をおいて歩いて馬路へ向かうことをおすすめする。
「甘藷とは」、いわゆるサツマイモの事であるが、全国的に見ても芋の碑というのは珍しいらしい。
すでに幾年月が流れ、八丈島の厳しい気候条件により風化しつつある石碑には以下の文が刻まれている。
「文化八辛未四月新島より持参赤さつま種作初 六代目 菊池秀右衛門」
「文政五壬午四月右同断ほんす種 七代目 菊池小源太」

薬師堂

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薬師瑠璃光如来(やくし るりこう にょらいを略して薬師如来)を祀るお堂であり、三原山の裾野に位置し、周囲の喧騒から離れた静かな森の中で、あきらかに違うピンと張りつめた空気が流れている場所にある薬師堂。
毎日掃除していると思われ、境内は素晴らしく綺麗だ。参道となっている玉石も趣がある。
「目、手、足」の病者が祈願して、目なら「目」という文字を半紙一杯に書いたものを何枚もつづりあわせて供えたという。

抜船の場

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かつて、八丈島に流されてきた流人が島の船を盗み、この場所から本土を目指したらしい。
270年におよぶ八丈島流罪史で18回抜け船が行われ、82人の流人が脱島している。
その多くは島の沖合で捕らわれ、大島まで逃げた物、なんとか江戸まで辿り着いた者もいたが、抜け船の罪は死罪であった。
しかし死罪と決まっていても、青い空の下で、この「抜船の場」に立って、蒼い海の遙か彼方の江戸を夢見た流人の数は多かったのではないかと思う。
現在は朽ち果てた船が置かれているだけなのだが、何とも寂しい雰囲気を辺りに漂わせている。
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為朝(ためとも)神社

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八丈小島にある為朝神社を分社して、大里の郷人有志が建立し祀っている。
源為朝は1156年、保元の乱に敗れて大島に流されるが、近隣の島を征服し、勢力が大きくなったため、1170年、伊豆国領主狩野茂光に攻められて自刃したというのが正史なのだが、八丈島の伝説では「大島から三宅島に逃れ、さらに青ヶ島に渡って、再度追っ手よって八丈小島に逃れて、そこで自刃した」とされている。
この神社の周りには「為朝の腰掛け石」、「為朝の耳跡」、「為朝が弓で射通した堀切」、「為朝の城跡」など為朝伝説が数多く残されている。